“中野土人形”のひとつ「立ヶ花人形」は、西原家が明治30年頃から作り続けてきた土人形。現在は、4代目故・西原邦男さんの奥様、久美江さんが息子さんと一緒に制作をしている。 |
「この立ヶ花あたりはねんど土で、瓦を焼いていたほどで、いい粘土だったそうです。それで昔、冬の間は瓦の仕事ができないからって、人形師の方が人形を作ってはどうかということで土人形作りが始まったんです」と久美江さんは話す。 明治30年頃、愛知県三河の瓦職人であった斉藤梅三郎が、中野市の安源寺で瓦の製造をしていた西原己之作に、冬季間の副業として人形制作を教えたそう。久美江さんは、義父の三代目・袈裟慶さんが土人形を作るのを手伝ってきた。 |
「嫁いでから、何年かたった頃、じいちゃん(袈裟慶さん)が、人形を作り始めたんです。でも、じいちゃんは若い時に少し手伝いをしたくらいで。そのあと戦争があって、しばらく人形作りは途絶えていたそうですが、周りの方に進められて始めた時は、とても苦労したようです。私は、当時子育てをしていたから、おむつ洗ってそれを干して、おこた(こたつ)で少し手を温めてから、じいちゃんの手伝いをしていたりしていましたね。お父さんのほうは、冬の間でも、りんごの剪定があったから。私は冬の間は家にいましたから、じいちゃんに教わりながらや
っていたんですよ」。 |
基礎となる粘土は、今のところは畑でとれるそう。手作業で粘土を堀り、袋に入れて外で寝かせておく。 |
「寝かせておいたほうが、やっぱり良い粘土にはなると思います。1年寝かせて、冬を通すと、粘土が凍みる。この凍みることが粘土にとっていい気がするんです」。 |
夏になると、生地づくりが始まる。よくこねて、昔から大事に守り続けてきた型にいれて人形を次々に形にしていく。中野市で毎年3月31日と4月1日の2日間にかけて行われる「中野ひな市」に出品するために少しでも多くと思い作っている。西原家に人形を伝えた三河の斉藤氏は、歌舞伎に造詣が深かったため、西原家が作ってきた人形は歌舞伎物が多い。その他、歴史の登場人物や物語の登場人物など、現在は約50種類の人形がある。人形一つ一つに物語やロマンがあると久美江さんは言う。 |
夏の間に天日で良く乾かした人形は、庭にある小さな窯で強度を高めるために素焼きする。
「窯には、少ししか入らないから、何回も焚くんです。9月頃になると、陽がくれるのが早いから、夕方から焚き始めて。ちょうど良く焼けてから、自然に蒸らし、次の日の朝に取り出す。その日の天気と相談しながらね。 |
割れることもあります。せつないですよ。昔じいちゃんも、焚いている時に、窯でピシンピシンと音がすると、あぁ、今嫌な音したな~なんて言ってましたよ」。 |
粘土も、火の加減も、そして気候も自然のものものだから、どうなるかは分からない。久美江さんは、うまく焼けるようにと願いながら作業を行う。 |
素焼きした茶色い人形は、でこぼこの部分を丁寧にやすりをかけ、胡粉(ごふん)という白い塗料を塗る。全体を白くしたら、いよいよ絵付けが始まる。西原さんが一番神経を使う過程だ。色付けは、薄い色からだんだんと濃い色を付けていく。まずは、肌の色、赤や黄色を塗って、最後に顔を描く。 |
「顔描きをやらせてもらってからは、10年くらいになるかな。じいちゃんに教わったり、残してくれたものをよく見ながらやってきました。いざ、やってみると難しくてね。今でも、一番緊張しますよ」。 |
周りを囲う山々の頂が雪で白くなり、やがて里も雪におおわれる信州の冬。畑での仕事が一段落した久美江さんは、ストーブを付けて部屋を暖め、ひな市までの期間人形制作の一番難しい作業を来る日も来る日も行う。先代の想いを筆にたくして描いた人形は、毎年中野ひな市で彩り鮮やかに春の訪れを祝う。 |