「30年くらい前は、ここはミニ牧場だったんですよ」。
さわやかな涼風が吹き抜け、八ヶ岳を見渡せるパターゴルフ場に隣接した、赤い屋根で白壁の建物。ずいぶんと昔からここにあるこの建物は、岸浪邦彦さんが営む“ひつじ小舎”という喫茶店だ。店内には、岸浪さんと奥様の節子さんが制作した木彫り人形が飾られ、ギャラリーになっている。
「僕らがここに来た頃はここは牧場で、羊やヤギ、ウサギがいたんですよ。この建物は当時、その動物たちの畜舎だったんです。建物の上には鐘が付いていて、きっとカランカランと鳴らせば畜舎に入ってきたのかもしれないですね」。
鎌倉に住み、イベントや人形劇で使う着ぐるみを作る仕事をしていた岸浪さん。松原湖高原のオートキャンプ場に遊びに訪れ、ここが気に入り鎌倉から移り住んだ。木彫り人形を本格的に始めたのも、ここに来てからだと言う。材料の木材はこの辺りの間伐材。白樺やカエデ、まゆみなどを使っている。
「僕はもともと彫刻をやっていたり、ある人形劇団で着ぐるみの制作をする仕事をしていたんですけど、その仕事のかたわら、手の空いた時には木彫りの人形を作っていました。着ぐるみを作る仕事は、デザインもきっちりと決まっていて、
基本通りに、全てを作らなければいけない。だんだん需要も減り、体力的にも大変になってきて、徐々に人形をトータルで作りたいと思うようになりました。着ぐるみの仕事のように限定された、はっきりしたものがないから、今はいろんなものを作っていきたいですね」と岸浪さんは話す。
制作をするのは、ほとんどが冬の間。11月で店を閉め、冬ごもりの準備をしてから、人形づくりは始まる。彫刻刀で掘る時に、指が滑らないように指サックをはめ、数ある彫刻刀の中から必要な一本を選ぶ。彫刻刀は、すべてお手製だ。
「紙の上で、デザインはしていません。まったく絵の通りにはできませんからね。それは木に対して、すごく無理をしないといけない。もっとも、絵を描くのが下手なんでね」と笑う。
「ある程度漠然としたイメージを描きながら、まず手を動かす。具体的な形は作りながらじゃないと、確かめられない部分がありますから」。できるだけ一つの木から作りたいという、岸浪さんの作品は、あれこれと組み合わせてあるのではなく、一つの木片を彫って完成させる。木に直接ペンで線を入れながら、削る事を繰り返して行く。人形の表面はノミ痕を残したり、またはヤスリでなめらかにしてあるものもある。ただ、ノミ痕を残したままにしておくものは、ごまかしがきくんですよと岸浪さんは話す。だからノミ痕を残したままにするものも、一度ヤスリをかけて表面をなめらかにしてから、よく観察してみる。そうすると、ちょっと足が太すぎたなどと、細かい気づきが出てくる。
「一万でも二万でも、自分でお金を払って、何かを手に入れるという事は、それなりにみなさん努力して手に入れたお金ですから、僕らの人形をお金に換えてくださる、そういうお金を払う価値があると認めてくだる方に、人形をお譲りすることは、とても嬉しいことです」。これまで作ってきた数多くの人形の写真が、2冊の分厚いアルバムに収まり、一つ一つの人形に思い出があふれる。
「人形作りに基本というものは、ないですよ。目と口をつけたら、何だって人形になる。ただ、自分の中でここはもっとこうしたほうがいい、ああしたほうがいいと思っているかぎり、人形作りは終わらないですね」と岸浪さんは話す。
静かな午前中、お店では岸浪さんが人形づくりをする事もしばしば。また節子さんが別荘に住む方達に木彫りの教室を開き、器づくりなどを楽しんでいる。お店はさながら工房のよう。窓の外には緑が広がり、ひつじ小舎にはコーヒーと木の香りがただよっている。 |