「楽しい人生ですよ」とにこにこと笑う倉根ちづさんは、機織り名人の89歳のおばあちゃん。緑が豊かな山あいの村に住んでいる。
「生まれも南相木村。村から出た事がないんですよ」とちづさん。機織り機の前に腰掛けると、足と手を器用に動かし、トントン、と機を織っていく。夢中になって機織りをする姿は若々しい。
緑に映える紫色のアイリスや、淡い赤色のサラサドウダンツツジが咲く庭に面した小さな機織り場。一人暮らしをする自宅とつながった小さな機織り場には、家族に作ってもらった「ちづの機織り工房」の看板がかかげられている。部屋の中央に置かれた年代ものの機織り機は150年も前から、使われてきたものだという。
「これはねぇ、ご先祖さまが使ってきた機械なんです。嫁にきたこの家にあったもの。私がこれだけ織ったのですよ」と指差した機織り機の上の位置には色とりどりの糸がたばになってくくられている。
「織り終わったら最後の糸をつけるんですよ。機(はた)神様といって、織らせて頂いてありがとうって感謝の気持ちを込めてつけるものなんです。祖母達の糸はだいぶ朽ちて落ちてしまいましたが」とちづさんの娘の世津江さんは話す。代々受け継がれてきたしきたりだ。
ちづさんは25歳の時に、冬の間に松本まで機織りを習いに行った。昔は自分達で織った物を着ていたから、女性の仕事として日本のいたるところで織られていた。ちづさんも実家にあった機織り機に触れ、だいだいは織ることができたよう。
「戦争があり、男の兄弟は皆戦争に行ってしまった時代に、女の人は家を守り畑仕事をしていたりしていたんですね。それでおばあさんが、それだけじゃかわいそうだと思ったからか、冬の間だけ勉強に行かせてもらったようです」と世津江さんは話す。その後長野県の修練学校で機織りを教えていた事もあった。25歳の時に勉強したノートは今でも、折り方を確認するのために開く。茶色のハードカバーのノートで、丁寧な文字で色々な模様織のメモが書かれている。
若い頃から始めた機織りだが、ますます熱心になって始めたのは80歳を過ぎてから。織物を教えている先生と出会い、様々な糸を仕入れてもらうようになり、また、洋服にしてくれる方と出会い、ベストやジャケットに仕立ててもらった。
85歳になった時、佐久市の喫茶ギャラリーでの作品展を開催。人との出会いに恵まれ、ちづさんの創作意欲もますます広がっていく。
織物というのは、「たて」と「よこ」の組み合わせによって成りたっているもの。織りを始める前にまずたて糸の準備。たて糸を機にかけるまでの作業の整経を行い、機にたて糸を取りつける。細かく根気のいる作業だ。縦絖(そうこう)という、4枚の枠に何百本もの針金が縦に並んでいるものがあり、この縦絖、そしてよこ糸を打ち込む櫛のような形のおさの一本一本の間に、数千本ものたて糸を通す。この縦絖とピアノのペダルのような4本の足板をつなぎ、足板を操作することで縦絖が上下に開き、その開いたスペースによこ糸を入れていく。
ちづさんは「1、3、1…」と小さく声に出しながら、両足で足板を代わる代わる踏み変え、よこ糸を入れ打ち込んでいく。ちづさんの手足が機と一体になってみるみるうちに、鮮やかな模様の入った織物ができあがってくる。
毎日歩いて出かける畑にはブルーベリーや蕎麦が植えられている。昼夜の寒暖の差が激しいこの地ならではの美味しい実りとなる。
「毎年たくさんの知り合いがブルーベリーを採りにくるんですよ」と微笑むちづさん。夏になると収穫を楽しみに、そして何よりちづさんに会うために多くの人がここに訪れている。
“人との出会いが元気の素”
ちづさんというたて糸に、出会ってきた人のよこ糸が重なり合う日々の織物。それは夢中になってしまうほど、楽しくてカラフルな模様だ。 |